指揮者による「キリストの受難」曲紹介

こんにちは(おはようございます、こんばんは)大阪大学吹奏楽団で正指揮者を務めています、3回生Tbパートのたっぺんです!

今回は定期演奏会の曲紹介ということで第3部ラストを飾る大曲、交響曲第2番「キリストの受難」について少し紹介させていただきます。

キリストの受難とは?

 この曲はFerrer Ferran氏によって作曲された交響曲で、3楽章構成となっており、その長さは全曲で約40分という吹奏楽作品の中でもかなりの長編であり大曲です。曲題にある通り、イエス・キリストの生涯を曲に落とし込んだような創りになっており、曲の随所に聖書からの引用文が添えられています。全てを解説するととんでもない長さになってしまうので、今回は各楽章がどんな場面なのかを要約してお届けします。

1楽章

 1楽章は聖母マリアがイエスを身ごもったことが告げられる場面(受胎告知)に始まり、夢でのお告げにより幼きイエスの命を狙うヘロデ大王から逃げてエジプトへ向かう場面、その後イスラエルへ戻る場面へと続いていきます。

ヘロデ大王は自身の脅威となる救世主イエスの誕生を聞き、なんとしてもイエスを殺そうと東方三博士にイエスを探させますが、博士たちはイエスに会った後にお告げを受け、ヘロデ大王のもとに帰らなかったのでイエスは生き延びることができたのでした。

しかしなんとしてもイエスを殺したかったヘロデ大王はベツレヘムとその近辺にいる2歳以下の男子を全員殺してしまいます。これが幼児大虐殺です。その中にイエスが含まれていればいい、というとても残忍な考えですが、先述の通りイエスはエジプトへ逃げていますので殺されることはありませんでした。

さて、一難去ってイスラエルに帰ってから30年後、イエスは洗礼者ヨハネから洗礼を受けようと、ヨルダン川に向かいます。そこでイエスはヨハネに「私(ヨハネ)こそがあなた(イエス)から洗礼を受けなければならない」と言うのですが、この場ではイエスがヨハネから洗礼を受けることになりました。洗礼を受けたイエスが川から上がると、天が開き神霊がイエスに降り注ぎ、文字通り神々しい場面を迎えます。ここが1楽章の終結となります。

 1楽章の曲調としては、序盤は神秘的で静かながらも力に満ち満ちているような場面からスタートし、その後快活なテンポのゾーンを経て、激しく動きのある場面に移ります。この辺りはイエスの身に迫る危機や幼児大虐殺などが描写されており、落ち着いた後に終盤では壮大なスケール感とエネルギーを伴って濁りのないB-durにて終止します。

場面の変化とともに移り変わる曲調をお楽しみください。

2楽章

2楽章には「3つの誘惑」というタイトルがつけられており、イエスが悪魔からさまざまな誘惑を受ける場面が描かれています。

1つ目の誘惑は「神の子であるならば、この石をパンに変えてみろ」という、神の力を示させようとする誘惑です。イエスは聖書の内容を述べて反論し、自分の力をそのような誇示に使うことはしませんでした。

2つ目の誘惑は悪魔がイエスを寺院の頂上へと連れてきてから行われます。それは、「下へ飛び降りてみなさい、あなたが神の子であると言うなら、御使(天使)が現れて打ちつけられないように支えるだろう」というものです。神を信じるものは救われる、という聖書の内容を持ち出して悪魔は誘惑しますが、それを他人の利用のためや、自分のために使うようなことはしないのだ、とこれもイエスは断りました。

最後の3つ目の誘惑はイエスが高い山に連れられる場面にはじまります。ここでは、悪魔が、「私にひざまずくのなら、この世の全ての国々をあなたのものにしよう」という大きな誘惑を仕掛けます。しかしこのような全権威を目の前にしても、イエスは「主なる神を拝み、ただ神にのみ仕えよ」と悪魔に告げ、誘惑を振り払いました。すると悪魔はイエスから離れ去り、御使が降りてきてイエスに仕える、という場面を迎え、イエスは「悔い改めよ、神の国はすぐそこにある」と教えを宣べて楽章の終わりとなります。  

2楽章は全体を通して不安定な場面やカオスな場面が多いのですが、イエスが全ての誘惑を振り払い、悪魔が離れていった場面からは、穢れが浄化されるかのごとく濁った和音から非和声音が次第に取り除かれ綺麗なEの和音に帰着し、その後C-durの非常に落ち着きのある透き通った曲調に変化するなど、その急激な差や変化が面白い楽章です。ぜひその点にもご注目しながらお聴きください。

3楽章

 3楽章はイエスが宣教を進め、信者を増やしたのちに聖地イスラエルに戻ってきた場面から始まり、序盤ではイエスの帰還を祝っています。

しかし聖堂に入ったイエスはそこで商人などが売買しているのを見つけると怒って彼らを追い出し、聖堂を清めました。

さて、次の場面ではイエスは自分自身の受難、つまり捕らえられて十字架に磔にされることを悟っているところに始まり、夕方になって十二弟子とともに食事の席に着きます。これが最後の晩餐です。最後の晩餐の後、イエスたちはゲツセマネという場所に行き、イエスは祈ります。

さらに場面は変わり、イエスは捕らえられ、裁判にあたって大祭司の前に出されます。そこで大祭司は「あなたは神の子キリストなのかどうか、答えよ」と問いかけますがイエスは黙秘します。すると周りの群衆に向かって彼はバラバを赦してイエスを殺すように、と説き伏せます。実はこの裁判においてはもう一人、バラバという罪人がおり、群衆が選んだ方の1人だけは罪が赦されて釈放されるというシーンなのですが、群衆がイエスが殺されることを選ぶように仕向け、結果としてバラバが赦されてイエスが磔にされることが決まったのでした。

その後イエスは鞭打たれ、十字架に磔にされ、いよいよ絶命します。

その後亡くなったイエスを探しに墓にやってくる人々がいたのですが、その御使が現れて、「イエスはもうここにはいない、彼は甦ったのである」とキリストの復活を告げるのです。

そして復活を遂げたイエスが現れ、私は天地において一切の権威を授けられた、だから私は全ての国民を弟子として、父と子と聖霊の名の下に彼らに洗礼を施し、命じた一切のことを守るように教えよ。私は世の末まで確かにいつもあなたたちと共にいる」と宣べられ、この場面を以て曲は終わりを迎えます。

 3楽章ではリコーダーが登場します。Bongoとともに軽快に冒頭の音楽を創っていきます。また3楽章中には印象的なB.Sax soloがあります。この場面はちょうど大祭司が群衆に向かってバラバとキリストのどちらを放免するか問いかけたり、赦されるのはバラバの方だ、と選ぶ場面であり、soloが祭司の問いかけ、その後に続くカオスな楽器群の動きが群衆の蠢きと捉えることもできます。打楽器を効果的に用いて鞭打ちの音や十字架にはりつける、釘を打ち込む音などが再現されている点にもぜひ注目を。最後は復活を遂げた後の壮大で深い響きを伴う音楽で締めくくります。ここでは歓喜・祝福・希望などといった感情が渦巻き、輝かしい響きを持つDes-durで終止します。

40分の中で一番大きなエネルギーをもって堂々と歌い上げる終結部をぜひホールでお聴き届け下さい。

長くなりましたが、これでもまだ曲の全ては拾えていない()ので、もう少しキリストの受難を知りたいよ、というアグレッシブな方はこちらのリンクから詳しい曲解説をどうぞ(阪吹に共有した少し詳しめの解説です)

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